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参議院議員 山口那津男君の通信簿


プロフィール


(以下、ウキペディア引用)

山口 那津男(やまぐち なつお、1952年7月12日 - )は、日本の政治家、弁護士。公明党所属の参議院議員(4期)、公明党代表[1](第3代)。


衆議院議員(2期)、防衛政務次官(第51代[2])、新進党副幹事長、公明党参議院国会対策委員長、公明党政務調査会長などを歴任した。



経歴

生い立ち

1952年(昭和27年)7月12日、茨城県那珂郡那珂湊町(那珂湊市を経て、現在はひたちなか市)に誕生、高等学校卒業まで日立市で育つ。父は日立市天気相談所所長、母は小学校教員だった。


茨城県立水戸第一高等学校を経て、1972年、東京大学法学部に入学。弁護士を目指して司法試験の勉強を始める。年齢も入学年度も同じでともに弁護士志望だった魚住裕一郎と親友になり、しばしば喫茶店で社会問題を論じたという[PR 1][注釈 1]。1978年に東京大学法学部を卒業。


弁護士時代

1979年、26歳で司法試験に合格する。1982年、司法修習34期を修了し、東京弁護士会に弁護士登録した。司法修習の同期には伊東秀子、谷垣禎一、千葉景子、松野信夫らがいる。1988年3月から日本弁護士連合会調査室嘱託。


衆議院議員

神崎武法の誘いで1990年(平成2年)2月、第39回衆議院議員総選挙に旧東京10区から公明党公認で出馬し、初当選。1993年8月の第40回衆議院議員総選挙でも旧東京10区で再選。総選挙後に発足した細川内閣(細川護熙首相)では防衛政務次官に任命された。


1994年12月、公明党解党に伴い公明新党を経て新進党結党に参加。党「明日の内閣」安全保障副担当、党副幹事長などを歴任する[3]。1996年10月の第41回衆議院議員総選挙では、東京17区から新進党公認で出馬したが、自民党公認の新人平沢勝栄に敗北し、落選した。その後1998年1月の新進党分党により、新党平和を経て公明党再結成に参加。1999年、自民党との自公連立政権形成(小渕恵三第2次改造内閣)により、政権与党となる。その翌年、2000年の第42回衆議院議員総選挙では再度平沢に敗北し、落選した。


参議院議員

2001年7月、第19回参議院議員通常選挙に東京都選挙区から公明党公認・保守党推薦で出馬し、参議院議員として初当選。2003年12月、党参議院国会対策委員長に就任。2004年6月には党参院政策審議会長に就任した。


2007年7月の第21回参議院議員通常選挙で再選。2008年8月、公明党代表太田昭宏の下で党政務調査会長に就任する。


公明党代表

2009年9月8日、民主党への政権交代が起き自公両党が下野した第45回衆議院議員総選挙で落選し党代表を辞任した太田の後任として、(野党第二党の党首として)公明党代表に就任[4][5](その8日後の9月16日、麻生太郎内閣総辞職及び鳩山由紀夫内閣成立)。なおその20日後の9月28日、同じく総選挙で敗北した自民党の麻生太郎総裁も(太田と異なり、落選こそしなかったものの)引責辞任し、その後継に総裁選挙を経て谷垣禎一が就任した。2010年9月、党代表に無投票再選。2012年9月、党代表に無投票3選。また、同年の自民党総裁選挙で谷垣の任期満了に伴う後継として、安倍晋三が就任。


2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙では自民党が第一党に復帰し、公明党も議席を回復。自民党総裁の安倍晋三から自公連立政権の3年ぶりの再樹立を打診されたため、同月25日に安倍と連立合意文書を取り交わす。同月26日に野田佳彦第3次改造内閣総辞職により旧・民主党政権が終焉し、第2次安倍内閣が発足した。これに伴い、山口は与党第二党党首となった。


2013年1月、第2次安倍政権の与党幹部として初めて[6]中国共産党中央委員会総書記習近平と会談し[注釈 2]、内閣総理大臣安倍晋三から託された親書を手渡す。同年7月の第23回参議院議員通常選挙に公明党公認で出馬し、参議院議員として3選を果たした。2014年9月、党代表に無投票4選[7]。2016年9月、党代表に無投票5選[8]。2018年9月、党代表に無投票6選[9]。2019年7月、第25回参議院議員通常選挙で4選。2020年9月27日の党大会で、無投票により7選[10]。なお、(安倍首相の発病による辞任表明を受けて)この13日前の9月14日に行われた自民党総裁選挙で菅義偉が選出され、2日後の9月16日に首相就任、(第4次安倍第2次改造内閣総辞職に伴い)菅義偉内閣が発足。



2021年10月24日、東京都大田区の大森駅東口にて

2021年(令和3年)9月3日、自由民主党総裁である菅義偉は2021年自由民主党総裁選挙に立候補しないことを表明した。これにより山口が2009年(平成21年)9月8日に公明党の代表に就任して以来、連立相手である自由民主党は5人の総裁が就任することになる。なお1人目の麻生太郎に関しては山口が就任した8日後である2009年9月16日に辞任、10月1日には谷垣禎一が自民党総裁に就任した。その後安倍晋三、菅義偉の順に就任している。9月29日の投開票の結果、岸田文雄が総裁に就任することが決定、これで公明党代表に山口が就任して5人目の連立相手のトップは岸田ということになる。


政策・主張

選択的夫婦別姓制度導入に賛成。

最高裁判所が初の憲法判断を示す見通しになったことを受けて、「最高裁から断を下されて政治が動くのではなく、かつて法制審議会で合意形成されつつあったことからどうすべきなのかを自覚的に考え、議論するのは当然だ。私は肯定的だ」と述べた[11]。

また、「社会や家族の構造が変わり、女性のライフスタイルや価値観が多様化する中、若い世代を中心に夫婦別姓のニーズは高まっている。」とも述べている[12]。

受動喫煙防止を目的とした健康増進法改正案に賛成。

2017年3月2日の中央幹事会において、「喫煙を巡る国民の捉え方は大きく変わりつつある。政治が放置しておいてはならない。国際社会に通用する法整備が必要だ」と主張した[13]。

2019年の大連立構想について、一定の距離を保つ立場を採った[14]。

山口とジャーナリストの田原総一朗の対談を収録した「公明党に問う この国のゆくえ」(毎日新聞出版)が2020年9月12日発売される。

その中で1999年10月の自自公連立政権(小渕恵三第2次改造内閣以後)への参加について「金融危機で政治を安定させる必要があった」と説明。

野党に転落した2009年8月の衆院選で、8小選挙区で同党候補全員が落選したことについては、「やるせない悔しさ」だったと振り返った。年金政策などで「公明党が福祉の党、平和の党と言いながら裏切ったことに批判の大半があった」と分析し、その上で、旧民主党政権で野党にとどまった理由を問われ、「(自身が防衛政務次官を務めた)細川(護熙)政権以来、民主党の人たちの大部分をよく知っていた。忍耐力や協調性に少々欠け、実現性が乏しく見える政策を掲げていた」と説明した。

一方で連立政権を形成する自民党に対しても短所を指摘し、「(年金や失業対策などにおいて)国民の琴線に触れるような、地に足のついたアイデアは自民党からはなかなか出てこない」と苦言を呈している。「口を開けば、『憲法改正、日米同盟、安保法制』だ」とも指摘した。

一方、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染で、全国民への臨時定額給付金を当初の「1世帯30万円」から「1人10万円」に変更させた経緯を「国民の求めに政策が追いついていなかった」と振り返り、同様の主張をした自民党の二階俊博幹事長とは「連携がなかった」とした[15]。

集団的自衛権についてかつては反対

90年に山口が初当選したあと、二見伸明の事務所で「集団的自衛権の行使は、長い間にわたって政府が違憲と判断してきた。それを解釈改憲で認めることはできない」と語っていた。2015年の平和安保法制成立に際し、二見は当時を振り返り「弁護士らしく、筋の通った話でしたよ。それがなぜ、安倍政権の解釈改憲に賛成するのか。いつ変節してしまったのか。まったく理解できません。」と語っている[16]。

現在の役職

公明党

代表

東京都本部顧問

参議院

農林水産委員会委員

国家基本政策委員会委員

政治倫理審査会委員

人物


横須賀海軍施設にて(2005年2月12日)

東京都葛飾区在住[17]。

野党時代(旧民主党政権下)も含め10年以上にわたり公明党の代表を務めているが、支持母体である創価学会において中枢にいた経験はない[18]。

温厚な性格で知られる。前任の太田など従来の公明党議員と比べてアクがなくソフトな外面で、これが代表に起用された大きな要因とされる。政治家としては必ずしも長所にはならず、人当たりの良さから「敵はいないが味方もいない」というのが永田町周辺の評である[19]。

中学生時代はブラスバンドに所属し、トロンボーンを担当した。現在でも自宅にマウスピースを保管しているという[PR 2]。また、子供の頃から歌を歌うことが好きで[20]、カラオケでも歌が上手いとされており[21]、フランク永井の『おまえに』『有楽町で逢いましょう』『君恋し』などが持ち歌である[21]。

座右の銘は、出身校・茨城県立水戸第一高等学校の校是でもある「至誠一貫」である[22]。

支持者の間やニコニコ生放送でのニックネームは「なっちゃん」[18][21]。2001年、第19回参議院議員通常選挙で初めて参院選に立候補した際には、支持者からナツミカンを模した金属製バッジを贈られた[23]。ナツミカンバッジは2013年の第23回参議院議員通常選挙でも装着された[PR 3]。

活動

1991年7月にベトナムとカンボジアを訪問した際、地雷で手足を失った子供たちと出会ったことをきっかけに、ライフワークとして地雷除去支援に取り組んでいる。

「日本の対人地雷除去機の海外への持ち出しを『武器輸出三原則』の『武器扱い』から除外させ、アフガニスタンとカンボジアでの実証試験を成功に導いた」と述べている[PR 4]。

日本国外で地雷除去活動を展開する山梨日立建機(現:日建)の代表取締役雨宮清からは「平和や国際貢献を叫ぶ政治家は大勢いますが、『現地の人々を幸せにする』との強い覚悟で一緒に汗を流してくれたのは山口さんだけ」と評されている[PR 5]。

2021年7月1日の中国共産党の結党100周年記念に対し、祝電を送った[24][25]。

耐震偽装問題関連

2005年、「一級建築士らによるマンションの耐震強度偽装問題を事前に知っていたのではないか」とされる疑惑が報じられた。


読売新聞によれば、2005年11月、国土交通省がマンションなどの耐震強度偽装問題を公表する以前に、山口が同省の担当者に対し、「民間の確認検査機関の建築確認に問題があり、耐震強度が不足したマンションがあると聞いた」と話し、開発会社ヒューザー社長の小嶋進から事情を聞くよう求め、同省担当者に仲介を依頼している[26]。この仲介の結果、11月9日、小嶋は同省建築指導課の課長補佐と面会していた。


国交省は取材に対し、山口の紹介で建築指導課の課長補佐が小嶋と会ったことを認めている[26]。それによると、小嶋は11月9日、役員らとともに同課を訪れ、「建築確認は国の仕事であり、建築基準法に合わないマンションができたのは国の責任だ」などといったことを話し、国側を激しく批判したほか、11月15日にも元国土庁長官伊藤公介と面会をしていた。また、小嶋は自らの証人喚問の前に、山口の紹介で建築指導課の課長補佐と面会した事実と暴露していたが、証人喚問では小嶋は証言拒否を繰り返し、野党議員も内閣官房長官安倍晋三や小嶋との関係、公明党大田区議会議員と小嶋との関係などに追及の時間を費やしたため、山口と小嶋の関係が取り上げられることはなかった。


詳細は「小嶋進#証人喚問」を参照

著書

単著

『なっちゃんの挑戦―元気な東京元気な日本』(2000年12月、鳳書院、ISBN 4-87122-117-2)




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